なだきゅうトップ >> 津和野街道鉄道 >> 津和鉄線の歴史

津和鉄線の歴史

 津和野街道鉄道は、現在の島根県鹿足郡津和野町と広島県廿日市市を結ぶ古道、津和野街道の沿線を走り抜ける鉄道です。沿線の皆さんから「津和鉄線」の愛称で親しまれています。
 路線と並行して伸びる津和野街道は、古くは沿線住民が行き来する里道でしたが、江戸時代に参勤交代が行われるようになると西国街道(山陽道)の宿場町、廿日市から津和野へ抜ける脇街道となりました。また、米や和紙などを石見地方(島根県西部)や山代地方(山口県北東部)から広島藩(主に広島県西部)へ物資を運ぶルートとして使われるだけでなく、厳島神社(廿日市市)、太皷谷稲成神社(津和野町)への参拝の道であったことからも重要な道と言えます。幕末から明治のはじめにかけては、隠れキリシタン弾圧(浦上四番崩れ)により、信徒の中心人物が津和野に移送されたキリシタン流配の道でもあります。このほか、沿線には、中国地方の特徴の一つ、神楽をはじめ、伝説、神話、そして西中国山地の豊かな手付かずの自然が残る、歴史的にも貴重な道です。
 そんな古道に並走する津和鉄線は、古来よりこの土地で行われていた たたら製鉄、鉱山鉄道、森林鉄道の前身とする鉄道で、明治以降、中国山地で得ることができる様々な原材料や加工品を瀬戸内海側の都市へ運び、沿線での生活に必要な食料や製品を都市から持って帰るだけでなく、旅客輸送も行う、暮らしに欠かすことのできない鉄道となりました。
 しかし、沿線産業の衰退と道路網の発達により貨物輸送は廃止され、現代では貨物車が賑わっていた往年の輸送を再現した列車が津和鉄線の新しい魅力として沿線住民やファンに愛されています。

石見銀山鼠取り

 津和鉄線の前身のひとつに鉱山鉄道があります。現在の津和野町内にあった笹ヶ谷鉱山の開坑は鎌倉時代と伝えられ、江戸時代は石見銀山代官所支配下の天領になりましたが、直接経営ではなく地元の請負山師制でした。鉱山では主に銅を採掘し、少量の銀や亜鉛、副産物としてヒ素を採集していました。最盛期には石見地方・出雲地方他の銅山の合計の3~4倍の産銅高を誇っていましたが、江戸後期には坑道が深くなって採掘が困難になり、減少しました。一方、この頃から硫砒や鉄鉱などを焼いて作られる亜ヒ酸が銀山代官所を通して殺鼠剤(さっそざい)として売り出されました。郷土史にはほとんど残されていませんが、この頃、鉱山から鉱物を運び出すための鉄道が敷かれたと言い伝えられています。これが津和鉄線のはじまりです。

津和鉄線と雨瀬六仙

 雨瀬六仙〔あませ ろくせん〕は、沿線で生まれ育ったとされているものの、雨瀬家の繁栄や彼に関する資料は見つかっていません。しかし、1970年代後半、「六仙」の名が書かれた西中国山地の林業に関する資料が島根県鹿足郡柿木村(現:鹿足郡吉賀町)で発見されました。この資料では、鉱山の衰退とともに始まった津和野街道鉄道についても触れられており、津和野街道記念館に残されている郷土資料に書かれている史実と一致する内容も数多くあったことから、雨瀬氏の活躍が記された数少ない資料として同記念館に寄贈され大切に保存されています。
 雨瀬氏が津和野街道鉄道に関わるようになった年代はまだ分かっていませんが、林業に関する資料に名前が書かれていたことを踏まえると、既に鉄道による木材の搬出が行われていたと考えられています。六仙が指揮を取るようになってからは、本来運ぶべきものは木材だが、生活物資を運ぶのも我々の使命という考えがより一層強くなり、次第に生活に根ざした路線になっていきました。

  

津和野街道鉄道・安芸灘急行電鉄は架空の鉄道です。
実在する言葉・地名が登場しますが、史実を元に歴史を改変した創作物です。絶賛加筆修正中。